◆西口だんだん(10時~13時)(毎週水曜日)
3月5日、12日、19日、26日
4月2日、9日、16日、23日
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◆東口だんだん(10時~12時)(第二金曜日)
2025年の東口だんだんは
3月14日(金)
4月11日(金)
介護に関心のあるかたも、どうぞいらしてください。
介護者支援の会ほっと♡おおみやが運営するケアラーズカフェ
◆西口だんだん(10時~13時)(毎週水曜日)
3月5日、12日、19日、26日
4月2日、9日、16日、23日
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◆東口だんだん(10時~12時)(第二金曜日)
2025年の東口だんだんは
3月14日(金)
4月11日(金)
介護に関心のあるかたも、どうぞいらしてください。
まず、さいたま市の宇宙劇場へ行ってプラネタリウムを楽しみます
本日は正午から『アースシンフォニー 光と水が奏でる空の物語』
「あれ~ ゆっくり回ってる~!」・・・本当は回ってないのですが会場が回っているような錯覚を覚えます。
この宇宙劇場まで夫と一緒に観て、そのあと別行動。夫は県立歴史博物館へ、私はさいたま市立博物館へ。今日は観たいものが違っていました。
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◆大宮駅の活け花です
コンコースでは、大宮駅開業140周年を記念して、オークションをやっていました
こちらは駅弁売り
「はこビュン」とは JR東日本より
荷物のイメージである「箱」と「運ぶ」をかけて「はこ」、そして新幹線や在来線特急列車などでスピーディに「ビュン」とお届けするイメージを、名称とロゴデザインに込めています
「峠の釜めし」って以前は900円だったような・・・いつ買ったか覚えてないほど前ですが・・・
大宮駅の天井から吊り下げる広告・・・今は仲里依紗さん、後ろはご主人の中尾さんのCM
先ほどJR東日本の広告料金見ていたんですけど、大宮駅の東西自由通路のフラッグ広告って月に250万円もするんですね。必ず目に入りますからね
目的地は↑↑ ここ。この地図を見たかった
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クマガイソウを見に、昔、栃木まで行ったことがあるのですが、な~んだ、埼玉にも見られるところがあるのですね
2008年頃の 「さいたまスタジアム2002」
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◆奥東京湾ということば
さいたま市で小学校生活をしている子は埼玉の歴史や郷土、文化を学ぶと思いますが、わが家のように途中から引っ越してくると、子どもも親も埼玉の郷土を知りません。
今日これを見て、昔の埼玉って海だったところもあるんだ~と知りました。
奥東京湾ということば
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アセビ(馬酔木)
今はケヤキ並木ですが、昔は杉並木だったそうです↓↓↓
さっきまでいた「さいたま市立博物館」にそう書いてありました↓↓
カワヅザクラ(早咲きの桜)が満開
(撮影:富士山とユズ大好き人間)
暖かい日というか、すっかり春の陽気。動くと暑い!
最高気温 20℃、自転車で移動すると上着を脱いでもマスクを外しても汗かいてしまいました。
2025/3/13 8:11 霞み富士
国道の反対側のハクモクレンを望遠で写しました
すごくいい香りが漂う。
あ、沈丁花 見っけ!
へ~ さいたまでも沈丁花が咲いてるんだ、知らなかった。
白い沈丁花
↑↑ 北浦和の東京電力・埼玉総支社の後ろ側の道を行く・・・次は大宮区役所へ行きたいので、車のほとんど来ない脇道を通る。
でも・・・実はどこを通っているか、わかっちゃいない。この道を全然通らないもので・・・。ただ、方角はわかります、大丈夫。
ハクモクレンが満開な木もあるんですね
常盤(ときわ)中学校
初めて見た!さいたま市で自転車通学ができる中学を!!
(地方だと自転車通学ができる中学が多いけど、さいたまでは初めて見ました~)
サンシュユ
↑↑ ハクモクレンは開いてしまうと、あとは散るだけ・・・。
モクレンって咲いてる時は清楚で美しいのですが、開ききるとみっともなくなって、散ると・・・茶色くなって汚いんですよね。そのギャップが激しい。
大宮南中学校の真横が、埼玉県立大宮高校 ↓↓↓
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大宮高校の北側の塀に沿って行くと・・・今日の目的地
◆某キリスト教会での、オレンジ・カフェ体験会
自治会長、民生委員のこの地域の代表、地域包括支援センター白菊苑のスタッフも参加されていました。
みんなで2曲歌いました
「ふるさと」の作曲家:岡野貞一(ていいち)さんはクリスチャンです・・・と説明がありました。
「春がきた」「春の小川」「もみじ」「おぼろ月夜」「ふるさと」の作曲家
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◆大宮南小学校の仮設校舎
生徒数が増えて増えて、↑↑ 運動場に仮設校舎を建てた小学校。わいわいにぎやか、元気な声が聞こえてきま~す。
今はお掃除の時間だったのかな?
児童の中に窓から外を見てる子もいて、私が自転車をこぎながら校舎を見てると、どのクラスからも私に手を振る人なつこい子がいて、私も思わずにっこり笑って手を振り返しました。なんか連鎖みたいで、自転車こぎながら各クラスに手を振りました。可愛い!
氷川参道の小さい白いサクラ
脇道に入ったら小さいピンクの桜が満開でした
今日も一日お疲れさまでした。
2011年3月11日
あの頃、私はまだ実際に介護していなかった。このあと5ヶ月後?には関東からずいぶん離れた地方の田舎から認知症の母を埼玉に連れてくるのだが、まだこの時点でそんなこと全然頭にもない。そんな日が来るなんて夢にも思ってない
あの頃は育孫をしていた。
可愛かった~
週に3~4日、お昼から午後8時くらいまで生後4ヶ月の赤ちゃん=孫を預かっていた。
大地震が起きたとき、自分は死んでもこの子だけは守らなきゃ❗️と必死だった。
その日に限ってすごくよく寝てくれた。機嫌もよかった。ありがとうね。
マンションの友人の息子さんが、ボクにできることはありますか?って家に来てくれた。感謝します。
家族とは連絡ついた人、つかない人、いろいろ。
赤ちゃんのママ=娘は、夜にはわが家に着いて、その日はうちに泊まることができ、赤ちゃんとママ、そしてばあば👵=わたし、3人仲良く寝た。
赤ちゃんをママに渡すことができて心底ホッとした。
赤ちゃんのパハは、会社で寝た。
私の夫も会社で寝て、早朝、川越回りで大宮に戻ってきた。その日は姪の結婚式があるからだ。
結婚式やるの?中止のお知らせが来ないから、その後、品川のホテルに夫婦で向かった。
他の子どもたちはどこにいたのだろう?
うちにも2週間後に結婚式を迎える息子がいたけど、もう会社の社宅で暮らしていた。
もう1人の息子はあの頃横浜にいたかな?
大震災が起きたとき、一家全滅にならないように、家族が各地に分散して住んでるのもイイもんなんだな、と思った。
大震災の年から始まって10年間、母の介護が始まった。
6年くらい、母の介護と週に3~4回の孫の見守りが重なった。若かったからできたのだと思う。
あの頃赤ちゃんだった孫は、もうすぐ中学3年生。
大きくなりました。